梅田恭詞物語⑤

第5話「人生最悪の時」

私生活ではクラブライフに明け暮れ、体重も落ち、
全てが「さあ、これから!」という頃のことです。

その頃の私の職業は、ブログ内では何度か触れていますが自営で喫茶店をしてました。
行ったこともないのに、イタリアのカフェにあこがれてエスプレッソやカフェラテなどを出す店でした。
時代としてはまだスタバも銀座と新宿にしかない頃で、エスプレッソマシンもすごく高価なもの。
日本製はもちろんありません。
イタリア製のオートマチックで誰でも美味しく入れられるものだと、200万~300万。
もちろんそんな高価なもの買えませんから、ちょっと技のいる・・・それでも50万するマシンを購入。
理想のイタリアンカフェを目指していたんです。
店の名前はイタリア・イギリス合作映画からとって「ラッキー・カフェ」
映画の内容は家族愛の心温まるとってもいい映画です。


これが外観
こんなんでも、結構お金かけてます!

みなさんご承知の通り豊橋は喫茶店の激戦区。
やっぱり普通の喫茶店のようにモーニングやランチをやらなければならず、
少人数でがんばっていました。

オープン当初は母と二人、時々姉が手伝いに来てくれて営業していました。
ところが一年経たない頃、母が病気になり一時は一人でやっていたことも・・・
姉も自分の仕事の合間に随分助けてくれました。

それから少し経って友人が仕事を辞めることになり、
店を手伝ってもらうことになりました。
家族経営から友人との共同経営に転換です。
その年の夏、ようやく運気が舞い込んできたかのような客入りとなりました。
目標の売り上げもはるかに超え、順風満帆かに思えたのですが。。。

共同経営の友人はとても仲が良く、気心知れた存在でしたが仕事となると別です。
次第に店の運営方法で衝突するようになり、そんな雰囲気はお客さんにも伝わり、
客足もどんどん遠のいていきました。

決定的だったのが「9・11」の惨劇です。
あの後、三か月ほど車関係の企業は業績を落ち込ませ、
従業員の財布の紐をも固くさせました。
その余波が、うちの店にも来たのです。

そして、その年の年末に店をたたむことを決めました。
明日支払うお金がない。
運営方針では信頼していた友人とぶつかるばかり。
家族にも散々迷惑をかけて・・・
店を辞めることを決めた時は、肩の荷が下りた気持ちでした。

店を辞めるにあたっていろいろ整理する中、
「ホントの気持ち」というものを知りました。
開店資金で作った借金を家族や共同経営の友人が一緒に返してくれました。
自分が長く働いた会社の退職金を長い間貸してくれた友人もいます。
労働力や心の支えとして近くに居てくれた人もいます。
言い方は悪いかもしれませんが、あの時に大切な人を見分けることができたと思います。
『金の切れ目が縁の切れ目』
お金のない人間によくしてくれるなんて、よほどの思いがなければできません。

だからこそ、今はちょっとしたことがとてもありがたい。
日々感謝の毎日です。
そして、あの時助けてくれた人たちのことは一生忘れません。
足を向けて寝られない・・・というのはホントにあるんです。
今こうしてインストラクターとして一人前にやっていられるのも、
たくさんの人達に助けられてのことです。

店の整理が終わるころ、たくさんの人達の気持ちが私にパワーをくれました。
さあ、ここから人生をもう一回がんばろう!!
そう思った時、一度はあきらめたインストラクターに挑戦することを決めました。

つづく~