慰霊碑が点在

あなたの頼れる御用聞き 北浦一郎です。

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8月6日(金)のNHK NEWSWEBに
掲載された記事です。

爆心地から70キロも離れた場所で
地域の人が行う慰霊式典。

一見、8月6日の広島では
私には、普通に感じる
風景ですが、

これには、こんな理由が
隠されていました。

記事にある
「8月6日開設の救護所」の
プロットを見ると納得します。

JRの運転士の皆さんと
救護の当たった救護所の皆さんの
行動と

慰霊碑が点在する理由は
私の記憶には残りました。
これを多くの皆さんと共に
伝えていかねばなりません。

 

被爆から2日後
 列車に乗って救護に向かった
 という大下さん。

 列車は人々の命を救う
 『命綱』になっていたのです。

 爆心地の広島市と
 広島県の北部を結んでいたのは
 いまのJR芸備線。

 当時の様子を知りたいと、
 JR西日本広島支社に取材すると
 『戦時中の記録は
  ほとんど残っていない
 とのことでした。」

こんな素晴らしいことに
つながっている内容も
廃棄されているのでしょうか。

お上に内緒で列車を動かしている
と言うことで、
意識して記録として
残さなかったのでしょうか。

記録として残っていないことは
残念ですが、
列車が「命綱」として
活躍した事実は

伝えていきたいと
私も想いました。

8月6日の原爆投下直後から
 走っていた芸備線。

 原爆で傷ついた人を
 8月の終わり頃まで
 運び続けたということですが
 詳しいことはわかっていません

 身元がわからないまま運ばれて、
 そのまま亡くなり、
 火葬された人も
 少なくありません。

 そうした人を悼むため
 爆心地から遠く離れた各地に
 慰霊碑が点在しているのです。」

時間が経過するにつれて
原爆の事実を伝えることが
困難になっています。

今回、明らかになった事実も
当事者だけが知っていた
事でした。

記録に残っていない
こんな事実が、
もう無いことを祈っています。

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