ミッドナイトスワン
午後久しぶりにオフだったので、
一人映画へ。
観るのは何でも良かったけれど、
なんとなく時間が合ったから選んだ作品。
ずっと、涙…涙…涙…
鬼滅の刃よりも
ドラえもんよりも泣きました。
観に行ってよかったと心から思えた作品でした。
一言では言い表せないほど複雑で、
でも訴えかけていることはシンプルで、
これをどう整理すればよいものか。
☘️
女に生まれたことを別段どうとも思ったことがない私です。
「私は女」ということは
性別に丸をつける時と生理の時、
ママと呼ぶことの大抵が女性を指すことを理解しているから呼ばれた時にそれを認識するだけ。
「女性に生まれてよかった」と思うことはあっても、この世に生をうけるのに男でも女でも、
自分は自分で大差なかっただろうなと思います。
だからそのへんのセンシティブな問題は
正直に、寄り添うことはできても100%の理解は難しく、言葉で軽々しく表現はできません。
だけど、作品の中の凪沙は、
一人の人間としてとても好きで、
とても愛おしく、
とても触れたくなりました。
凪沙が周りの人に
ギュッと手を握ったり、
優しくそっと手を重ねたり、
強く抱きしめたりしたそういうことを
私も凪沙にしたくなりました。
つまりは、性別はひとつの括りでしかなくて
人と人を繋ぐことには何の意味も持たないということ。
☘️
この世界の大抵はうまくいかないことや、
うまくいっていないことのほうが多いのだろう。
そんなふうにも思いました。
生を受けた時代も地も環境も、
選んで得たわけではありません。
人が羨むようなものをどれだけ多く持っていたとしても、
欠けている何かひとつで
その人にとっては不幸せにもなる。
みんな不幸で
みんな幸せ。
世界に生きている人全てが不幸で幸せなのだと、
漠然とそんなことを考えたりもして。
その不幸と幸せは
【ラッキー】の数で変容していくのではないかな。
ともすれば、
私はきっといま
ラッキーな人間です。
☘️
人間は、美しく在れる生き物です。
見た目とか性別はそこに関係なく、
美しく生きるか醜く生きるかの二極。
凪沙は間違いなく前者なのに、
取り巻く全てがそれを否定して
凪沙自身の肯定を妨げました。
人間は
愚かで醜く
美しく綺麗。
映像と音すべてで巧みに描かれたそれは
その世界観に飲み込まれた自分が
いかにちっぽけで、
いかにラッキーであるかを感じさせてくれました。
白鳥の湖の対比や
白鳥の湖を通しての比喩描写が
暗と明が表裏一体であることをさします。
残酷と慈悲そして仁愛
黒と白
そのすべてがとても美しかった。
素晴らしい作品でした。
色違いの金魚が共存した水槽
スワンと認め渡したヘッドドレス
一枚多い肉
短くなった髪
『男』の仕事
トレンチコートと赤い靴
散りばめられた【愛】のすべてを
見逃さず受け止められただろうか。
もう一度観たい映画です。
母になりたいと思って母になれた私。
ママがママでよかったと思ってもらえるように
ちゃんと母をしようと思います。
ママだけ美味しいランチ食べてごめんね♡笑
さぁ、今夜はゆめちゃんとゲームして遊ぼう!
mana