叔父を想う
2026年2月15日(日)8:29
父方の叔父が亡くなりました。
叔父の誕生日は私と同じ1月13日。
享年57歳でした。

四十九日を迎えるまでにできることは、
毎日叔父を思い出して
涅槃の岸に渡る叔父の背中を押すことだと
お寺さんに言われました。
《手を合わせて》とも言われていたのにすっかり忘れ、お寺さんの言いつけを半分しか守れていない私ですが、叔父はそんな私を見て「んなこまっけこと気にせんでいいてばぁ」と言ってくれていそうです。
初願忌にいる叔父はいまどうしているでしょうか?
「ひっでっ一週間だったわ」
そんな声が聞こえてきそうです。
叔父と会話しながら、
叔父のことを書こうと思います。
昨年12月30日から葬儀までのことを記録していた1,491字のメモに加筆して書いていきます。
いつもだと正月に祖母の家に行くのですが、今年は予定がいっぱいで、両親と娘との恒例行事である年末旅行の帰りに家に寄ることにしました。
普段は居間で騒がしくしているとすぐに2階から下りてくる叔父がなかなか来ず、祖母曰くどうやら風邪を引いて寝ているとのことで、珍しいねと話していました。
そんな話をしていると、叔父がゆめにお年玉を持って下りてきました。
襖を開けて手を伸ばし、ゆめにお年玉を渡すと、「うつすとわりっけ、2階にいるわ。またな」と言ってすぐに部屋へ戻りました。
襖を閉める直前に「あぁ、米持って帰るけ?」と用意してくれようともしていましたが、父が『また来るし、いいっけ寝てれ』と言い、「せば、また」と。
それが立つ叔父を見た最後でした。
ほんの一瞬だったので私は気づきませんでしたが、母は顔色を気にし、私やゆめは言われることがない『はよ医者に診てもらえよ』という言葉を父が叔父にはかけていたことを今となっては少し不思議に思います。
1月9日、10日と母から着信がありました。
忙しいからLINEするよう送る私に頑なに電話をかけてくる母を怪訝に思いながら、最終的に『今度話すわ』とLINEがあったので、《その程度》の話だと思い、折り返さず数日経って忘れていました。
1月13日は私の誕生日ということで、母とランチを楽しんでいました。
食事を始めて、何を食べている時かは忘れてしまいましたが、母が静かに『そういえば、今度話すねって言ってた話なんだけど…』と話し始めました。
《その程度》の話だと思い込んでいた話は、叔父がただの風邪ではなく肺がんかもしれないという微塵も想像していなかったものでした。
淡々と話す母の声に耳を傾け、(今日、誕生日なんだけど…)と心の中で呟きながら、誕生日に聞くことになったのにも意味があるように思いました。
翌日からまた母から電話がかかってくるのですが、着信に気づいても取らずにいました。
電話を取らずにいると、LINEで叔父のことが送られてくるのですが、それを読んだ私がその時に書いたメモの原文がこちらです。
✏️
聞きたくない
聞いても、、、
私の日常はいつも通り過ぎてゆく
薄情
現実味がない
(14日〜20日までのメモ、原文ママ)
✏️
いま読み返してその時の感情を思い出しても、信じられなかったし、信じたくなかったのだと思います。
13日からの一週間、私の日常は本当にいつも通り過ぎていきました。
母のせいで…母のおかげで忘れることは一日もありませんでしたが、心のざわざわと母からの度々の連絡通知以外は平穏で静かな毎日でした。
5行のメモの次に書かれたメモは、
1月21日検査結果が出る
肺がんステージ4、副腎等に転移
です。
年明けにかかりつけの病院で検査をしたら、肺がんの疑いがあると診断され、すぐに紹介状をもらってがんセンターへ。
この時点ですでにステージ4(IV期)、両肺・副腎・その他の臓器にも転移あり、切除できないため根治はしない、抗がん剤治療など試せるものは試すがどの程度効いてどう作用するかはわからないとのことでした。
非小細胞肺ガン
遺伝子変異KRAS G12R陽性
進展が早いタイプ
昨年の7月の健康診断で何も引っかからなかった叔父にとっても、こんな診断を急にもらって理解ができなかったと思います。
がんセンターに入院するまでの数日間は荒れてしまい、祖母に辛くあたってしまっていたようでした。
✏️
(以下、メモ原文ママ)
1月22日
父から説明を受ける
父が部屋からいなくなった後に、理由はわからないけれど涙が出てきた。理由はわからない。叔父が可哀想なのか、誰が可哀想なのか、明確な理由はわからないけれど、涙が勝手に頬を伝う。
7月の健康診断では異常なし
父も知らなかったおじの喫煙
ニコチンの影響もあって、自覚症状が乏しかったのか…?
2月5日
緩和ケアに切り替えるらしいことを聞く
2月6日
登校途中にゆめに知らせる
ポロポロ涙を流す
2月9日
院内でクラスター発生、コロナに感染、しばらく面会はできないと言われる
✏️
1月22日以降、抗がん剤治療なども開始していたのですが、そちらは父や母とのLINEの中に記録されているのでメモには記録していませんでした。
この間叔父はどんどん体調が悪化していくのですが、面会を希望するも病院の決まりで面会できず、ついにはコロナにまで感染し、面会できないまま日だけが過ぎていきました。
そして、ようやく面会ができたのは亡くなる2日前でした。
✏️
(メモ、原文ママ)
2月13日
病院から連絡があり、面会するなら早めに…と言われる。
父と母と夕方に病院へ。
ゆめは悩み考えた末に今回は行かず。
理由→叔父がコロナに感染している、劇団公演前日である、危篤ではない。
ただし、以降、生前に会える保証はない。
✏️
久しぶりに会った叔父の姿は全くの別人のようでしたが、中身は叔父そのものでした。
医師から、心臓に戻る血液が血管が腫瘍で塞がって詰まって流れず顔などが浮腫んでしまっていると聞いていましたが、顔自体はすっきりしており、目と手が腫れて膨れ上がっていました。
✏️
(医師の説明メモ、原文ママ)
酸素の量を増やし、浮腫対策重視
貧血が強くあるが、貧血対策で輸血をすることで浮腫がひどくなり痛みや辛さが強くなるなら輸血は後
今は酸素量を増やし、少しでも楽に過ごせるようにとケアに努めている
肺には水が溜まり、レントゲンには白いモヤが大きくかかっていた
✏️
(ここからはメモをもとに加筆)
話せるかはわからない、声を出すのもしんどそうだと聞いていたのですが、病室に母と入り、医師が母と私を誰かわかるか?と尋ねると頷いていたので、コミュニケーションはとれそうだと少し安心しました。
声は掠れ、耳を近づけてようやく聞き取れるくらいの大きさでしたが、叔父は酸素マスクを話す時だけ少し外して一生懸命話してくれました。
「もっと早く診てもらえばよかった」
これが一番最初に聞いた言葉です。
他に私が聞いた言葉は、
「からだ動かさないと痛くなる」
『何かして欲しいことある?』と訊くと、小さく首を横に振っていました。
『ゆめも来たがってたんだけど…』と言うと、その日一番大きく首を何度も横に振って、「ゆめはいい、ゆめは連れてくるな」と言いました。
一番最後に聞いた言葉は「ゆめ、公演頑張れ」でした。
叔父が振り絞った声と言葉を、ゆめにも聞かせたかった。
手を握ると握り返してくれ、見た目からは想像もできないほどの力強さに驚かされ、同時に、記憶に残る叔父の手の感触が唯一この瞬間のものだけであることが切なく、その手の冷たさとは真逆の叔父の心のあたたかさが忘れられません。
叔父には見えていなかったと思いますが、涙が止まらず、こちらもひどい顔をしていました。
叔父が最後に見た私の顔がもし年末のあの一瞬だったとしたら、私は笑っていたのだろうか?
人との出会いと交わりの中で、最期を意識していても、結局どんな最後にも悔いやもどかしさは残るように思います。
帰りの車中でも涙が勝手に流れてきて、家に帰ってゆめに顔を見られると困ると思っていたのですが、ゆめは私が帰宅して一度もこちらを見ませんでした。(私が気づかなかっただけかもしれませんが…)
明るい声で『おかえりー!』と言ってくれましたが、ちらりとも私を見ることもなく、背を向けていました。
うがいをしても、トイレに行っても、涙が止まらず鼻を啜る音に気づいたのか、何も言わずにそっと2階に行きました。
その後も何も訊かれぬまま就寝し、朝を迎えました。
ゆめなりの防御と配慮だったのかなと思いますが、その日は私もそっとしておいてもらえてよかったです。
✏️
(メモ、原文ママ)
お見舞いに行った日の夜、日本酒を飲んだ。
少しだけ酔いながら、弟に連絡をした。
ちょっとだけ気が紛れた。
ふと、(下戸の父の弟だし、確かおじも下戸だったよな?あれ?どうだっけ?)と思い出せずにモヤモヤしながら、けして濃くなく短すぎた日々が切なくなった。
「40過ぎたんだっけ、無理せんで働くのもほどほどにして、身体大事にしろよ」と言われた夏を思い出す。
どっちがさ。と悲しくなった。
父はやっぱり言動が変でてんぱってる感じ
母はこういう場に慣れてなさすぎて変なことばかり言う
2月14日、父とばぁとのりちょで病院へ
ありがとうと言われたとのりちょから報告あり
2月15日 8:18?息を引き取る
父の誕生日にだけは…と思っていたけれど。
✏️
実際に医師から言われた時間は8:29だったようですが、その前に母から連絡が来ていた時間が8:18でした。
後から聞いた話では、両親と祖母が病院に到着してから息を引き取ったらしく、叔父は頑張って待っていたようだと。
私も、叔父の急変に、みんながお見舞いに行ってほっとしちゃったのかなって思いました。
2月15日は父の誕生日です。
全員が絶対に忘れない日を選んだ叔父が少し意地悪に笑う姿が目に浮かびます。
2月17日に葬儀がありました。
すべてが終わって帰ろうとすると、私の車のバッテリーが上がっていて、エンジンがかかりませんでした。
16日からセレモニーホールの駐車場に置きっぱなしにしており、夜からずっととても冷え込んでいたので、それが原因だとは思いますが、叔父のことなので事故の回避か何かを知らせてくれたようにも思います。
そうして小さな出来事を叔父と結びつけられるくらい、死んでから叔父のことや叔父との関わりの深さを知ることになりました。
実際に聞いた声と言葉を元に、所詮勝手な想像と記憶の中の声を頼りに会話しています。
音の響きは確かなもので、私の心の中でどんどん叔父との会話が進みます。
それは紛れもなく、これまでの小さなやりとりの積み重ねが成すもので、あぁ…こんなにも私の中に叔父の存在が残っているのかと驚くと同時にやっぱりさみしくなります。
長身でがたいのよかった叔父の骨がとにかく立派で!
特に仙骨と大腿骨の素晴らしい大きさと造形美に見惚れていました。
骨上げの説明を聞きながら骨をじっと観察していると、声が聴こえてきました。
「箱に入れる前によぉ見れ。見たくても現物はなかなか見らんねろ。愛美が好きな骨を真っ先に箸でとれ。」
こんな時にまで勝手に叔父の声を…と少しだけ笑ってしまいましたが、お言葉に甘えて、拾い上げてしっかりと観察してから収骨させてもらいました。
叔父の戒名には【優誠雅孝】の4文字が使われました。
お寺さんが一文字ずつの説明をしてくださりましたが、まさにその通りの人だったなと思います。
叔父にはこう話しかけています。
『ばぁがまだ生きてるよ!直接面倒は見れなくても、ばぁが長生きして元気でいられるように見守る仕事は残ってるよ!体安らかに、けど心はまだまだ現役でよろしく!』
「ひんでぇ苦しい思いしたんだっけ、ちっとは休ませてくれや!おめーは相変わらず意地がわりぃ!けどま、そのつもりだったっけまぁやるこてさ。ちょくちょくばぁんとこ遊びに行ってやれ。貰い物の食べもんが腐る前に来て、好きなもんぜ〜んぶ持って帰ってくれ。俺持ってやれねっけ、重いもんも自分で運べよ、お嬢さん。」
多分、こう言っています。
だってそう聞こえるから。
人はいつか死ぬ。
そのいつかはいつ来るかわからない。
がん宣告されてから死ぬまでの1か月半で、叔父は悔やむことも悔いることもあったと思う。
叔父はきっとこうも言っている。
「俺が身をもって教えてやったこと、賢い先生ならうまく利用しろ。先に死ぬもんからしか学べねぇことがあるだろ。先に生まれたばぁはまだそれを教える気がねぇみてだっけ、俺ので勘弁しろぉ。せばな。」
あいよ!せば!
mana