意味のあること・意味を考えること〜2014年3月の教室だより〜

2014年3月の教室だよりが出てきたので、ここに書き残しておこうと思います。

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「どんなに頑張っても結果が悪かったら意味ないじゃん。どうせ1位になんてなれないし。できないのがわかっていて始めるのもバカみたい。できないことを続けるのもバカみたい。無理だって思ったらすぐにやめればいいんだよ」
先日の教室で、一人の生徒が言いました。

言葉が違っても、似たようなことを耳にすることはあります。

幼少期や学生時代、1位やトップという言葉にこだわってきた私としては、そこを目指さない子に出会うと少し不思議に思います。

例えば甲子園でも優勝校はひとつ、オリンピックの金メダルだって、定期テストの順位だって、ナンバーワンの称号は一人もしくは1チームにしか与えられません。

ですが、誰がそれを手にするかは終わってみなければわからないし、確率は違えども誰にでも可能性はあります。
その確率も個々の努力次第で変化するものであり、有り無しで考えればチャンスは全員に必ずあると思います。

闘いやすい土俵も上がりたい土俵も人によってさまざまですが、土俵を選んだ上でそこで闘う理由だけはもつべきだと思います。

以前、これだけはひとつ頑張ってきたという経験と自信とを持つことが自己肯定感に繋がり、壁にぶつかったとき、くじけそうなとき、いざというときに、大きな力を発揮するというお話をさせていただきました。

「先生は落ち込んだりすることはある?」
面談である子に訊かれました。

私も失敗して落ち込むときはあるし、気持ちと現実が噛み合わずにふわふわしてしっくりこない日が続くこともあります。

どんなに変わらず平垣で平和な道を選ぼうと努めてそこにいたいと願っても、人生には喜怒哀楽の感情がつきもので、人と関われば関わるほど、また関わらずとも気持ちは変化するし、毎日全く同じとはいかないものです。

50人のメンバーさんを前にして運動指導をしたときに、同じ日に酷評と絶賛の言葉をいただくこともあります。

気持ちが揺さぶられて正直めげそうなときもありますが、私はその刺激を求めています。

どうせやるならそこの施設でトップになろう!
そこでの私の存在理由はなに?
存在価値は?
そんなことを考えながら日々闘っています。

それが私の選んだ土俵。
平坦で平和な道を私は選びませんでした。

選ぶ道はそれぞれ自由。

1位を目指すとかトップになるとか、そこを求めるのもひとつの道だし、求めないのもそれまた道です。

できればそこしか上がれる土俵がなかった…ではなく、自分の意思で選んでほしい。
それは中学・高校や大学受験、そのまた先の就職でも。

やる前から何かを諦めるのは違うと思うし、できるできないを始める前から自分で決めつけるのも違うと思います。

できないことをやめてしまったら、そこでおしまい。何も変わりません。

できないと判断して身を引くことも時に大切で、それは勇気のいることです。
辞めるという選択もひとつの経験です。
ですが、真剣に考えた上での結論である必要はあります。

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ネットの掲示板で、習い事をすぐに辞めたいと子どもが言うことに悩んでいるお母さんにアドバイスしていた方がいました。

「辞める辞めないを許可するしないが重要なのではなく、自分で一度始めた習い事を自分で放棄するということに対しどう考えているかということが大事。自分で始めた何かを辞めるということに自分でけじめをつけることも経験。嫌なことを誰かに尻拭いしてもらう図式はよくない」と。

「何でも好きなことをさせてもらい、やめるときも自由だった子ども時代。結果、大人になってから自分で何をしたいのか何ができるのかわからなくなってしまった。障害を乗り越えた経験がないゆえに、嫌なことは放棄して次に進むことしかできなくなってしまった人もいる」ともありました。

子を持つ親として考えさせられました。
親としての永遠のテーマのひとつでもあり、教室を続ける以上ぶつかる問題。
考え方は千差万別です。

すぐにやめたいと口にする子にはどう言葉をかけようか悩みます。

私が好きな言葉のひとつ[どうせ◯◯なら]
どうせやるなら楽しいほうがいい。
どうせ作るなら美味しいほうがいい。
どうせやるなら100点がいい。
どうせ書くなら綺麗な字のほうがいい。
あ、私、字は汚いですが(笑)

これだけは言えます。
自分の中で手応えを感じて花丸を自分自身に与えることができれば、その時間そのときは誰でも1位をとれるということ。

最大の敵は自分自身です。
さあ!今日も自分と、そして時間との闘いです。

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【マシン=機械】
とある県の高校の剣道部のお話。

高みを目指す学校の部であるほど、厳しい規律と縦社会に縛られ「監督の言葉は絶対だ」と服従の姿勢を崩せない…と、かつて剣道で全国を制覇したことのある友人は言います。

この春退任することとなりましたが、高校剣道部のコーチとして赴任して数年。
見てきた子どもたちの中で一番気になる子が、陰でマシンと呼ばれる一人の生徒だそうです。

なぜそう呼ばれるのか。
それは機械のようにしか動けない指示待ち人間だからだそうです。

周りを見ていま自分が何をすべきかどう動くべきかを考えて行動することができず、常に「何をしたらよろしいでしょうか?」「どうしたらよろしいでしょうか?」と人に訊ね、言われたことだけをする。
言われたことは完璧にこなすそうです。
ですが、考えるということをしない。

真面目と言えば真面目。
例えば監督やコーチにメールする際(挨拶→名前を名乗る→伝えたい内容→失礼します)の流れで送ることが規則のひとつだったとして、その子は短時間で何度メールのやりとりが続いても本文に(こんばんは。剣道部〇年の〇〇です。→内容→失礼します)と入れて送ってくるそうです。
決まりといえど、無機質で感情も個性も見えてこない。そこに人間味も子どもらしさもなく、無気力ともとれる。その子自身が見えず怖いと彼女は言います。

彼女と本質が似ているからか、共感したのは本気と本音でぶつかってくる子は心から応援したくなるということ。
元気で明るくて活発で…ということではなく、無口で寡黙な子でも気持ちは伝わってきますし、見ていればわかります。

そういえば、高校野球において甲子園常連校のコーチもそんな話をしていたなと思い出しました。

一生懸命な姿は、隠しきれないほどの漲る熱い何かは、必ず人の心を打つのです。
涙というもので溢れた感情を表現することも一種のそれです。

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「先生、泣いちゃってごめんなさい」
教室の帰り際にある子が言いました。

先生、泣くのだめって言ったっけ?と訊くと、「お母さんが先生に迷惑だから泣いたの謝ってきなさいって…」

教室では時々涙を流す子がいます。
テストの結果が思うようにいかなくて悔しくて、難しい問題に直面して頭の中がこんがらがってパニックになって、やりたくなくて…理由はさまざまですが、基本泣いている子がいても私はそっとしておきます。

子どもたちには「◯◯が泣いてるよ。声をかけてあげたら?」と言われますが、声をかけるのは落ち着いてから、話を聞くのも子どもたちが口を開くまで待ちます。

私は泣くことは良いことだと思っています。
涙を流す子を愛おしくも思うし、そういう子はとても好きです。

涙は心の安定剤でもあります。
泣くことで気持ちが整理され、すっとする時だってあるし、涙は心の表れ、流したいなら流せばいいし泣きたいならとことん泣けばいい。
感情を止める必要はないので、大きな声で泣こうと机にふせてシクシク泣こうと、いずれも溢れるものはそのままでいいと思っています。

声をかけるとしたら、肩をポンと叩き「泣きたいなら泣きたいだけ泣きなさい。気が済むまで泣いて、涙のわけを話したいなら話せばいい。落ち着いてもう大丈夫と思ったら、それはそれでいい。ゆっくり泣きな」これくらいでしょうか。

私はそういう考えなので、「泣いちゃってごめんなさい」は間違いです。
泣くことはいいことだよと伝えます。

子どもたちはそんなに弱くありません。
見守っていると、いつのまにか強くたくましくなっています。

その変化が小さくても、一歩一歩乗り越えて前に前に進み、上へ上へ登っていきます。

泣きながら、歯をくいしばりながら、最後まで諦めない。途中で投げ出さない。それが大切だと思います。

人前で涙を流せるって素直で素敵なこと。
できれば嬉し涙や感動の涙のほうがいいけれど、感情を隠さず素直にさらけ出せるそのまっすぐで正直なところは受けとめてあげたいです。

どんな形でも、人間らしく、子どもらしく。

感情を無にすることや制限することは、自分がいま何を思い何を感じているかを見失い、惰性で物事を運んでしまいがちになります。

人間の良さは心を表現できるところ。

マシンと呼ばれるその子が殻を破り、本当の意味で人や剣道に向き合ったとき、また違った世界が見えることでしょう。

『人の変化や成長過程を見守ることができる。そこが指導者冥利に尽きる』
うん。納得。

mana

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