この世界で生きる人間として〜参加型裁判演劇【極刑】を観て〜

ずっと楽しみにしていた参加型裁判演劇《極刑》長岡公演を娘と観てきました。

どんな内容かは、ぜひこちらをご覧ください。
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公式HP

入場の際にナンバー付きの呼び出し状を受け取り、抽選で裁判員6人が選出される仕組み。

(どうせ参加するなら選ばれてもいいかも…)と思いつつ、抽選番号はかすりもせずに決定。

ですが、すっと決まったわけではなく、辞退者がいたため、繰り返しの抽選となりました。

責任が重大すぎて、いくらフィクションの世界でも、リアルと違い辞退して担わずに済むのであれば、それに越したことはないもんね。

裁判員の対象は18歳からなので、娘もそう遠くない未来に実際に呼び出し状が届くかもしれません。

刑事裁判がどのように行われ、どのように判決が下されるのか、そういったことを知るにはよい機会だと思いましたし、道徳や倫理が複雑に絡み合う難題に考えを巡らせることはこれから社会の一員となる娘にとって必要なことだとも思いました。

開廷後はリアルタイムでチャットが更新され、裁判を見守る観劇者の心の内を知ることができます。

自分の考えがぐらつくほどのパワーワードがほとんどなかったので、思考は乱れることなく終始クリアでした。

時と場合によりますが、意見交換が求められる場においての無言やノーリアクションは何も考えていないのと同じだと思っているので、いくつか自分の考えを呟いてみました。

そう多くはない《いいね》でも、賛同者がいることには少しの安堵感があり、逆に言葉の影響力の怖さも感じました。

文字だけなので、誰がどんな表情で、どのくらいの意思の強さと責任をもって発言しているのかわかりません。

そこに文面では読み取りきれない感情を声色や表情を加えて受け取った場合は、説得力や受け止め方が違ってくるでしょう。

何もわからない状態で受け取るものが言葉だけだからこその弊害もあれば、発言するのにさほど勇気を必要としないというメリットもあり、発言の機会が公平にもてるようになることで意見を引っ込める人が減る分、偏りは小さくなります。

言い合いになることもなく、皆が淡々と自分の考えや気持ちを呟くだけだったので、帰宅後チャットを読み返しても不快にはなりませんでした。

開演3分前の「この人死刑じゃないすか、極悪人ですよ」
開演2分前の「救いようのないクズですよ」
これを書いた人が同一人物なのかはわかりませんが、裁判が進行される中で気持ちや考えに変化はあったのかを聞いてみたいです。

資料として配布されたパンフレットが概要についての初見だった人もいれば、私のように事前にネット検索してあれこれ思考を巡らせていた人もいるでしょう。

《入り》が違うその時点で、開廷前の心情は皆違います。

中には昼公演も観たという人がいるのだから尚更です。

今回の裁判内容はもちろんフィクションで、裁判自体も簡略化されたものでしたから、結局のところは想像力と思いの馳せ方が判決を決める際に大きく影響します。

実際の裁判ではもっと考えるための材料があり、感情が揺さぶられ、思考がぐらつき、判断力も自ずと鈍るのだと思います。

感情移入するには内容があまりに浅く、自分自身の根っこにある善悪に対して問える時間も短く、その分「もしも」や「たられば」を考え過ぎるに至らないのが救いでした。

裁判の争点だけで判決を下すのか、争点をベースに関係者への尋問結果をどこまで加味するのか、そこに織り交ぜるものはどれで、どこまでを考慮すべきなのか、どこまでを配慮すべきなのか、、、その基準が曖昧で、個々の思考力と判断力に刑の決定を委ねられるのはとても怖いと思いました。

それこそ、裁判員の根本的思想が道徳や倫理の一般的かつ標準的なラインから逸脱していたとして、選ばれた裁判員のうちの何人が冷静に真っ当な判断ができるかなんてわからないわけで…

個々に違うものさしを携えることをよしとするこの世界に生きる一般人にとって、予備知識や十分な知恵を持たないまま挑む刑事裁判で重大な責務を背負わされるのは、やはり酷だなと思います。

状況証拠だけで判断せずに感情論になってしまう場合、人の心の温度や沸点がどうしても影響してしまうし、裁判員の生い立ちや境遇などによっても被告人と自分との重ね方が異なり、感情に動きが出れば冷静さも変わります。

そもそもの条件が、誰にとってもフェアじゃないんだもの…

それでも判決は出さなければいけないし、考えて結論を出せと言うならば、国民全体の思考力や判断力を健全に育むことが必要だと感じました。

だって、すでにこの世界は壊れているから。

もはや無垢からは遠いところで物事に対して色眼鏡で見ることに慣れすぎている人間が、見ず知らずの他人である加害者と被害者さらには家族や遺族そして社会や未来のことまで考えるのはとてもとてもとても難しい、、、そう自分の考えを整理しながら感じました。

コロコロ考えが変えられないほど、私は私の思考に答えを出してしまっているから。

だからこそ、もっと自分以外のことを知ろうと努め、「もしも」や「たられば」を考え続けなくてはいけないと思いました。

感情で判断してはいけないものに対して、感情に触れ、感情に寄り添い、他者と自分の感情の両方をぶつけ合わせたり天秤にかけたりすることで決断することの難しさを知りました。

極論を言えば、そもそも刑事裁判を必要としなくなればよいだけの話。

人の命を奪って何かを得たり守ったりする時代は日本に関してはもう終わっているはずで、それなのに絶えず増えていく犯罪に対して、私たちは何をどうすべきなのかを考え続けなくてはいけません。

考えているだけでは何もしないのと同義です。
平和を願い、せめて半径5メートルにいる人たちが平穏に生きていくために自分が何をするかを決めて行動しなくてはいけません。

私がどんな理由でどんな判決を下したかは書きませんが、2025年現在40歳の私がこれまで生きてきた時間で得たものの全てで懸命に出した結論。
それはあくまでも一個人の考えであって、否定されるものではないし、私も誰かの結論を否定しない。
どんな人も、全てを曝け出すには勇気がいるだろうと思います。

開廷中に巡らせた考えや思いは、
私という人間のかけら。

これからも人や人が生み出す出来事に関心を向け、新たな気づきや発見を受けとる度に自分を見つめなおすことを続けていきたいです。
そして、言葉には気をつけます。

言葉は人の感情を揺るがします。

誰かの心に波を立てるかもしれない責任は、実名と顔出しで発言することで少しは担うことができます。

顔を出さずに発言できてしまう世界は変わらないわけですから、せめて発言する人間はどんな責任をとるつもりで発言すべきなのかを考えられるほどの知能と心を持ち合わせていなければいけないし、受け取る側ももっと柔軟に強く賢明にならなくてはいけないように思います。

理想と現実は違い、第三者と当事者では考え方も変わると思います。

観劇するだけだった私が裁判員になり直接質問したとして、それだけでも何かが揺らぎそうなことは容易に想像ができます。

もしも、自分が被害者だったら
もしも、自分が加害者だったら
もしも、自分が遺族だったら
もしも、自分が家族だったら
もしも、自分が裁判員だったら

ニュースに取り上げられる悲しい事件は、「悲しい」だけで終わらせてはいけません。

世界は繋がっているし、人の生き様は誰かに波及します。

一人一人が自覚と責任をもって真摯に生きること、道徳感や倫理観を清く磨き続けること、殺傷能力のある鋭く尖った刃や避けることが難しい危険な鉄砲を人に向けないこと、人が無自覚に放つ乱暴を受け止めるにしても身を守ることを忘れずに受け流す力や術を身につけること、、、

当たり前のことに対して意識して準備しなければならないくらい、この世界は危険だらけだということですが、逃げたり諦めたりしていても始まりません。

観た人や参加した人全員から始まる世界の築きが、平和であたたかいものでありますように。

間違えても、観劇を通して新たな憎悪や捻じ曲がった思考が生まれないことを切に願うとともに、いただいた気づきや学びに感謝して、明日に生かしていこうと思います。
自分も肝に銘じました。

最後に、、、
非常に面白かった。
何が面白かったって、視点や着眼点のちがい。
気にするところや引っかかるところがこんなにも違うのかと思うと、人間はものすごく面白い生き物だなと改めて思いました。
「え?そこ重要?」
「え?そこを気にかけるんだ?」
「え?優先順位そっち?」
チャット欄を読んで、《違う》ってことが興味深すぎてすごくすごく面白かった!
一方で私の思考を覗き見た人たちもきっと色々と思うことがあっただろうし、これを読んでいる方たちもそうなのでしょうけれど…

意見交換するって大事だね。
想いや考えの溶き合わせは大事だね。

人は混ざり合って生きていくのだから。



今日は映画【爆弾】を観てきました。
昨日の今日でこの作品を観て、【極刑】を観ながら考えたあれこれを思い出し、複雑な気持ちでいます。

人間の命は尊いけれど、地球にとっては誰しも愚かな害悪でしかないのかもしれない…
人間が生きることは、何にとってメリットがあるのだろう?

・・・こういうとりとめのないことをぐるぐると考えることが大好きです(笑)

mana

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