余命10年
この世界に生きる人の中で
戦争を実体験した人の数はどんどん減っていき、
祖父母から話を聴くこともなく生きてきた私は
授業で教科書を眺めて
並ぶ文字と差し込まれる少しの写真とでしか
その実態を知らなかった。
今もニュースを見て
戦争という事実を目で捉えてはいるけれど、
私の生きるちっぽけな世界で経験のない光景は
まるで映画を観ているように
どこかフワフワした感覚で見ている。
多分それは、
最初から最後までニュースを見ることなく
一瞬目に映ったものを断片的に切り取って
見ているからだと思う。
道徳的にも倫理的にも立場的にも
集めたピースを咀嚼して
自分なりに向き合うことをしたほうがいいかもしれないけれど、それがなかなか難しい。
「信じられない」という言葉が、
過去の失敗を繰り返す愚かさに対してと
理解できない思想の持ち主に対してと
目の当たりにした光景に対してと
すべてに当てはまる。
最近は今まで毛嫌いしていたTikTokを見ている。
おすすめに出てくる
ちびっこの無垢な可愛らしさ
男女の友情から溢れる愛情
会社の上司と部下が織り成す面白い日常…
思わず笑みが溢れる動画の間に
時々『死』や『闘病』に纏わるものが出てくる。
同じ「今日」なのに
全然違う「今日」であることが不思議で
心が揺さぶられる。
スクロールして出てきた動画を一瞬で分け、
「観たい」と「見たくない」に分ける基準は
自分が望む「今日」かそれとは違う「今日」か。
自分とは違う「今日」を見て、
何を思えばいいのかわからなくなることで
自分が混乱するのが嫌なんだと思う。
それを非情と思う人もいるかもしれないけれど、
私の今日の平和は、平和のままで終わりたい。
隣で戦争の話をしていても
うんうんと頷くこともせず
カレーのメニューのことを考えている理由は
私の世界の平和を守りたいからでもある。
今日は今日しかなくて
今日が明日をつくるのに
今日が悲しくて辛いのはイヤだ。
だだをこねる子どものように自己中心的な思考が大人らしからぬ甘えたものであることは百も承知で、『イヤだ』の一言が自分にはしっくりくる。
戦争はイヤだ。
人が死ぬのはイヤだ。
暗いニュースはイヤだ。
真っ黒で鉛のように重たいもので
心を支配されるのはイヤだ。
自死
病死
変死
老衰死
同じ死でも、まるで違うもの。
本編が始まって、ものの数秒で涙が出た。
全く知らない赤の他人の病室のシーンが悲しくなるのは、親としての立場を重ねてと、過去に経験した病室での出来事がフラッシュバックするからだろう。
泣くもんか!とぐっと堪えていたけれど、
人が鼻をすする音を聞き安堵して決壊した。
言葉を想像しながら観ていると、
想像通りの言葉が耳を通過する。
それだけド直球だった。
やわらかく流れていく時間の中で、
積み重ねていくものと
削られていくものとが交互に出てきた。
この世の中に【プラマイゼロ】なんてものは存在しないのではないかと思った。
記録を消しても
記憶は消せない。
有形の貴重さ
無形の得難さ
出かける前にゆめの保育園時代のDVDを観ていたこともあり、過去を「いまの私」が見て感じる形容し難い感情が重なり、胸が苦しくなった。
【退屈でボケちゃうかもしれないと思った】
そういう日もある。
けれど、そういう日がどんなに尊い日か。
ホントみたいな嘘ばかり
頬張り続ける世界で
嘘みたいなホントばかり
抱えた君は窮屈そうに笑った
RADWIMPSの曲が、映画の序盤を表す。
窮屈そうに笑っていたのが、
減っていくバッテリーとともに
メモリーを少しずつ満たし
呪縛から解放されたように笑うに変わる。
私も充電が切れるまでは
全力で生きたい。
『よく頑張ったね』と言われるように。
mana