選択に真心を込めよ
明日いのちの最期を迎える可能性は
人間等しくあるわけで。
ともすると、
今日を全力で生きて
今日を全力で楽しんで
今日に全力で幸せを感じることはとても大切。
けれど、
明日いのちの最期を迎える可能性よりも
明日いのちが続く可能性のほうが高いとしたら、
明日のことやもっと先の未来のことも
今日と同じくらい大切にしなければならない。
今日この瞬間も、
過去になってゆく今日のすべての時間も、
なかったことにはできないし、なくならない。
いのちの積み重ねはずっと続いてゆく。
私は毎日選択している。
選択する時には、
【この選択が未来の私にどう影響するのか】
これを常に想像している。
選択の結果は
他の誰でもない自分にすべて降りかかるから。
自分を大切にしすぎて
自分を愛しすぎているがゆえに、
自分が傷つくことも
自分が自分自身で不幸を招くのも嫌だから
全力で自分を守るために真剣に選択する。
「たら・れば」を言うのが嫌いだ。
基本、私の人生に「たら・れば」はない。
すべて自分で選択してきたから。
責任をもって行動して生きてきたから。
今日が明日をつくることや
今日が明日につながることを忘れてはいけない。
ポジティブな言葉で今日を肯定できても、
今日築いた現実は変わらない。
「明日は、未来は、変えられる」
と言う人がいる。
確かに変えられる。
けれど、
いちいち明日を変えるための努力をするのなら、
私は今日、明日を変えなくてもいい努力をする。
未来を変える努力を
変えなくてはいけない状況になってから
慌てて取り繕うのではなく、
未来のために今日できることをし続ける。
人間は
支え合い、助け合い、協力し合って生きていく。
けれど、個の力が衰弱すれば、
支える力も、助ける力も、協力する力も
どれもこれも弱くなる。
個の力を指すのが
人間力なのか、生命力なのか、経済力なのか、
その他のことなのか、
そんなことは決められない。
けれど、私は個として強くありたい。
せめて自分で自分を守れるくらい強くありたい。
強さとは何か。
私が考える強さは、【揺らがない】こと。
誰がなんと言おうと、
自分のいまを否定しないこと。
自分の未来を憂うことなく生きること。
自分自身の存在理由に疑念を抱かないこと。
私は子どもたちによく問う。
「いまの自分は好き?」と。
何気ない日常の中の小さな行動も、
迷った時、
壁にぶつかった時、
乗り越えたい何かが見つかった時、
選択を迫られた時、
「自分を好きでいられるほうを選びなさい」
そう伝えている。
選択基準はそれぞれだから、
行動の選び方もそれぞれだから、
選び進むことに対して
心配はしても否定はしない。
子どもたち同士で
他者の行動(選択)に疑問を抱いて
『あれでいいの?』と訊かれることもある。
「選択のすべては自分に返り、良くも悪くも行動のすべては自分に還る。人は人」
そう答えると、子どもたちは
『やっぱり。そう言うと思った』と返してくる。
ある程度未来が予測できる分、
大人は未来を心配する。
経済基準、健康基準、幸福度基準…
この混沌として殺伐とした世界で
生き抜けるかどうかの心配はもちろん、
どんな身体で
どう感じながら生きていくのか、
その時を生きる【顔】を想像して心配する。
いま笑っている人が
未来で笑えなくなったら、
そんなに悲しいことはない。
だから心配する。
人の力になれるくらいに強くいようと努めても、
結局、人はその人が紡ぐ時間で形成され、
その人自身の強い選択でいまと未来が決まる。
力になれることなんてちっぽけで、
だから私はやっぱり人に個で強くいてほしい。
毎日は選択の連続。
選択の連続が自分が歩む道をつくっている。
無感情のぼんやりとした選択を重ねて通り過ぎ
振り返った時に乾かない泥道にならないように、
未来をちょっとだけ想像して
選ぶことを楽しみ
選ぶことに真心を尽くしてほしい。
跳ね【返】ってくるのか、
【還】元されるのか、
選択がもたらす結果は自分次第だよ。
mana