「今日で最後なら。」〜2014年4月の教室だより①〜
2014年4月の教室だよりが出てきたので、ここに記録しておこうと思います。
長文だったので、前後半に分けて投稿します✏️
「今日で最後。」なら
毎日しんどくてもなんとか頑張れそうだし、
「今日で最後。」なら
少しだけだけど勇気も出てくるし、
「今日で最後。」なら
後悔しないように必死にやるし、
「今日で最後。」なら
感謝の気持ちと言葉が出てくる。
毎日が最終戦。
ある人の言葉です。
私はいつも思います。
「どうせ◯◯なら」という言葉が好きな私は、どうせ生きるなら楽しくて幸せでいつも笑顔の絶えない世界で、大好きな人たちと一緒にこれでもかってくらい時間を大切にして一生懸命生きたいと。
その裏で苦しくて辛いときは、「この苦しさも辛さも含めて、すべてのことには必ず終わり【死】が来る!だから大丈夫!」とも思っています。
春の匂いとエイプリルフールを迎えると思い出す人がいます。
あの日から9年が経ちました。
🌷
少し脱線します。
今回の面談で子どもたち全員に訊いたことがあります。
「本は読みますか?」
本を読むことが小さい頃から大好きでした。
自分の中になかった世界を想像し発見し、その世界を自分のものにできる感覚が楽しくて、いろんな本を読みました。
いまだに妄想や空想に浸るのが好きなのは、少なからず本の世界と読書習慣の影響があるかと思います。
自分が伝えたいものとは言葉のニュアンスが少し異なりますが、一種の現実逃避ともいえる、別世界で別の自分と出会うための時間。
読書は私にとってそんなもので、新たな発見と吸収を繰り返し、吸収し汚れて不要となった異物をとり洗い流す心の浄化作用も含まれています。
本を読むことに対してさまざまな見解があるかと思いますが、私は自分自身を見つめ直す意味でも読書は必要不可欠だと思っています。
物事の何に対して自分がどう反応するのか、何が好きで何が嫌いで何に興味があって何を必要としているのか…自分って?どの世界のどの道を選んでどんな人たちとどんなふうに過ごしたいのか。
冒険ともいえる自分と向き合う旅を本という別の世界でしている、そんなふうにも思います。
読書ひとつで何を大袈裟に~と思いますか?
🌷
以前、ある小学校の6年生(現中学一年生)のクラスでの話を耳にしました。
議題は[貧困をなくすためには]
一人の男子生徒が言いました。
「貧困の奴らは生きているだけで迷惑だからそいつらが全員死ねばいい。そしたら貧困もなくなる」
我が子がそんな悲しい考えを持たなくてよかった…では済まされません。
問題は、世の中にそういう考えをもった人間が一人は必ずそこにいるということです。
🌷
先日、子ども悩み電話相談室で働く方とお話しする機会がありました。
毎日何件もかかってくる自殺を考えているという相談電話。
じっと話を聞き、その方は本を読むことを勧めたそうです。
「あなたは本は読む?読まないのなら、一日でいいから本を読んでみて。もしもあなたの心に響くものが見つかったらまた私に電話して教えてくれないかな?」
そう言い、電話を切ったそうです。
そして数か月後、一件の電話が入ります。
『言われてから本を何冊も読みました。本の世界が画白くて、私の心は嘘みたいに大きく小さく確かに動いていた。これが生きるってことなのかな。もっと生きてみたいと思いました。ありがとうございました』
万人に伝えてどうにかなるというわけではないと思いますが、本が持つ力は素晴らしい。
本が起こした奇跡が確かにひとつここにある。
本の中にある言霊は人に少なからず生きる力を与えます。
人と人を結び絶対に欠くことのない言葉と言葉のキャッチボール、その小さい連鎖が人の輪をつくっていきます。
🌷
死をもって貧困をなくすという考えを持ち生きている中学生の男の子。
自らの死を考えながらももう少し生きてみようと思った女の子。
そして冒頭の「今日で最後なら。」を毎日繰り返し突然の終わりがくるまで生きていた彼。
世界は広く、そしてそこに生きる生物すべてと出会うのは難しい。
出会うことができたのは奇跡に近い。
狭い世界で生きるのはもったいない。
本は自分の世界を広げてくれる。
広がった世界は自分の可能性をさらに広げ、また新たな出会いを与えてくれる。
本だけに限らず言葉に触れること。
🌷
「今日で最後なら。」
終わりを迎えた人を前にし、過去を思い出しズシンと響き心に衝撃を受けた言葉です。
得るか捨てるかの選択は自由。
ただ、触れなければ選択すらできない。
そんなふうに思いながら、今日も伝えたいことをとりあえずぶつけてみます。
『今日で最後なら。』
まだまだ伝えたいことはたくさんあるのにって後悔しないためにも。
mana